りえママの若いころとは?
宮沢りえさんの母親宮沢光子さんの若いころって一体どうだったんだろう?
と疑問が起こってきました。
その切欠は、光子さんが亡くなった時にりえさんが発表したコメントでした。
りえさんはコメントで、
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」と言っています。
光子さんは、肝腫瘍でありながら、自宅で療養をしていたようです。
エム・ツー企画の代表として宮沢りえさんをプロデュースしてきた光子さん。
プロデューサーとしての力量には、凄みさえ感じていましたが、やはり死に際も,もしかしたら壮絶なものだったのしもしれませんね。
このコメントが光子さんとの関係の全てを表しているような気がしてなりません。
「生きると言うことの美しさと,凄まじさと、その価値」
こんな言葉なかなか出てくるものではないのは確かですよね。
ここに光子さんの影響をりえさんが乗り越えて来たものの大きさを感じます。
光子さんがりえさんに自分の姿を通して最後に残した遺言のようなものの気がします。
りえママはオランダ人の夫との間にりえさんを授かりましたが,離婚によりりえさん自身はお父さんとの交流は全くなかったようですね。
りえさんは祖母の下で従兄弟たちと育ったそうです。その後11歳の頃にモデルとしてデビューしトップアイドルの一人にまで成長していきます。
その後のヌード写真集やふんどしカレンダーと光子さんのプロデュースで話題になり、貴乃花との婚約や解消、多くの恋愛遍歴や拒食症の噂などを経て、突然の結婚出産,そして離婚。その陰には、いつも光子さんの存在があったことでしょう。
そしてきっとりえママは若いときはまさしくりえさんのように美しく、凄まじく,真剣に生きてきたことでしょうね。だからこそ、娘をプロデュース出来たのでしょうね。
ある意味同じ生き様を歩んでいるのかもしれません。だからこそのりえさんの反発・・・。
りえさんのコメントの
「役者として、母として,女として、惜しみなく生きようと思います。」
惜しみなく、りえママから与えられてきたからこそ、言える言葉ですよね。
母から娘に伝わった瞬間ではないでしょうか。感動しました。
宮沢りえさんの円熟した女優としての活躍に期待しています。
この記事のまとめ
過去は全てOKだよね。
人は感情に支配されてしまうけど、それを乗り越え解釈を変えていくことで、
どんなことでもきっと乗り越えていけるような気がします。
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